第3章 ジェイン・ジェイコブズ

第1節 ジェイン・ジェイコブズの年譜                   

3-1-1 生い立ち、両親の愛ある教育に恵まれて-1916(0歳)〜1934(18歳)

 1916年5月4日、ジェイン・ジェイコブズはスクラントンにある「電気通り」で生まれる。ジェイン・ジェイコブズが生まれたとき姉のベティは6歳で、上の弟ジョンが翌年に、下の弟ジェームズが1年半後に生まれる。父は腕の良い誰にでも好かれる町医者であった。フレデリックスバーグ近くの農場のあまり豊かではない家庭で育ったが、おじさんが豊かだったおかげで、大学まで行くことができ、医学の学位を取得した。母親の生家は伝統的に職業婦人の家庭で、母親はペンシルバニアの炭坑地域の小さな町で育つ。結婚前にはペンシルバニアで、学校の教師と看護士の仕事をしていた。ジェイコブズの家庭は、お互いが自由な考え方を受け入れるという寛容さを大切にしていた。そのような家庭で育ったジェイン・ジェコブズは学校では多くの生徒が教師におびえるのに対し、茶目っ気のある冗談を連発して自身や友人達を楽しませるような子どもで、級友の一人は彼女のことを「自由な精神を持ち、賢く、陽気でおもしろく、大胆不敵」[1]と評している。静かなのは、あらゆるジャンルの本をむさぼるように読んでいるときだけであった。

 ジェインは父親と親密で父は彼女に事物を百科事典で調べることを教え、子ども達皆に自分で考えることを奨めた。1923年ジェインが7歳になったある日、父はジェインに守れない約束はすべきではないと、約束の重要さを説く。特に、こどものうちはこれから一生何かをするという約束はすべきではないということを説く。そしてそのことがきっかけで学校の先生の言う通りに約束できず、先生を激怒させ、学校から追い出されてしまう。しかし、ジェインはいつも通り自信を持って帰る。そして「そのことで、自分は独立した人間なんだという感覚をもつことができました」[2]と彼女は振り返る。

 初等学校の間にジェインは詩を書き始める。彼女は詩の何編かをバージニア州のフレデリックスバーグ新聞にコラムを書いていた、家族の友人であるトーマス・ロマックス・ハンターに送る。11歳の少女の詩は喜ばれ、刊行される。この頃からすでに物を書く才能を発揮する。

 近隣の多くの子ども達と同様に、ジェインは8年生のはじめにスクラントンのダウンタウンにある学校に行く。生き生きとした街路やダウンタウンのいろんな店が刺激的で、彼女は自分の生活にふくらみがでるように感じる。

 1928年、12歳の時、友人の家族と一緒に、彼女は生まれて初めてニューヨークを訪れる。ジェインはスクラントンもわくわくするところのように感じていたが、ニューヨークは当時「ジャズと狂乱の1920年代」という時代にあって、それよりはるかに賑やかで、摩天楼があり、高架電車が走る都市の景色はずっと長くジェインの印象に残る。

「わたしは、町じゅうの人々皆にびっくりさせられました。それは、1928年のウォール街の昼食時のことでしたが・・・・・・町が飛び跳ねているかのようでした。町じゅう、人で埋め尽くされていました」[3]

と都市に対する興味を示している。

 高等学校でもジェインは詩を書き続ける。おてんばであった彼女は両親の多くの援助のおかげで、1933年1月にスクラントンの中央高等学校を卒業する。彼女は「古典的」で一般的な教育を受けたが、「学校にうんざりしていて、執筆したり、報道したりする仕事に就きたかった」3ため大学進学ではなく、就職の道を選ぶ。しかし、両親は子どもが最も望んでいる職業に就くため実用的な技能を学んでおく必要があると考えており、ジェインはパウエルビジネス学校で、速記、つまりテープレコーダーが使われる前に使用されていた一種の略記法を学ぶ。彼女はその年の6月に秘書過程を終える。

 1933年、17歳で実家にいながらジェインは情熱通りに新聞の記事を書くことができる最初の仕事を見つける。その仕事を始めて1年経ったところで両親は国内のもっといろんなところを見る方がいいと、おばのマーシャ・ロビンソンを尋ねることを提案する。マーシャは「アパラチア山脈脇の谷間」といわれるノースカロライナのビギンズでコミュニティセンターの管理をしていた。おばと過ごして6ヶ月経った頃、ジェインは大都市に対する誘惑にかられ、自分の将来を模索したいと感じる。

 もともとおてんばで自分の興味のあることには熱中し、人を楽しませることが好きだったジェインであったが、父親から約束の重要さ、自分で考え行動することの重要さを教わったこと、自分の興味に対して自由に行動させてもらえたこと、自分の将来のことを本気で考え両親から進路のアドバイスをもらえたことはジェインの人格形成、今後の生き方に大いに影響を与えたと考えられる。

3-1-2 記者としての開花と大学での興味の深化1934(18歳)〜1944(27歳)

 1934年、18歳になったジェインは記者としてのキャリアを求めてニューヨークに出る。そこで大恐慌によりうちのめされた、以前訪れた時とは全く様相の異なるニューヨークをみる。ジェインは仕事を探しながら様々な町を歩き回る。そして数々の素敵な建物や曲がりくねった街路のあるグリニッジ・ビレッジを発見する。そこには様々な民族集団が混在し、多様な職種の人々が店主、労働者、作家、芸術家などと一緒に暮らし、靴修理店、魚屋、肉屋、八百屋が、本屋やカフェ、劇場、音楽クラブなどの間に寄り添うようにあった。

 速記者として秘書の仕事を得ることができたジェインは姉とともにグリニッジ・ビレッジのモートン通りに引っ越し、執筆を続ける。数ヶ月もしないうちにその都市の大新聞の一つである「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」が”While Arranging Verses for a book”(「本のために詩をまとめている間に」)という彼女の詩を発行する。その作品の内容は書くことの技術、彼女が「完全な思考を表現するための完全な言葉」を見つけるためにどれほど苦心したかということである。ジェインは5年間、小さな会社を転々としながら秘書として働きつつ、都市の探索も続ける。彼女は働いている近隣地区について観察した内容を生き生きとした記事にし、それで多額のお金を稼ぐことに成功する。そんな中、彼女の父が病に倒れ、1937年、59歳で逝去する。

 1938年、22歳のときジェインは物書きの仕事を続けながら大学の講義をとることでたくさんある自分の興味を深めることにする。地質学、化学、発生学、動物学、法学、政治科学、さらに経済学を学ぶ。かつては問題児であったジェインがここでは良い成績をとる。

 憲法学のコースにおいて自分がとてもおもしろいと感じたものに熱中するジェインは「実現したかもしれない憲法」と現実の憲法を対比させ、不採用となった起草案の全記録を編集する。1941年、ジェインが25歳のとき、コロンビア大学出版局は彼女の本として『Constitutional Chaff: Reject Suggestion of the Constitutional Convention of 1787, with Explanatory Argument』(『憲法雑考:1787年憲法制定会議の不採用の起草案 解釈的論考を交えて』を発行する。

 2年の受講の後、ジェインはIron Age(『鉄器時代』)誌で働き始める。そこでは金属産業についての記事を書く。戦時の装備のための新しい材料や製品について書き、また、戦争の経済効果についても言及する。1943年3月、ジェインはIron Age の特別記事を利用して、自身の故郷、スクラントンの悲惨な状況に対して注意を喚起する。内容は1940年代初頭に炭坑の無煙炭が枯渇したときに25000人の炭坑夫が職を失い、7000軒以上が空家になってしまったことを書き、彼女は「軍事用の物資を製造するには理想的な場所であるスクラントンに、なぜもっと多くの会社が設立されないのでしょうか?」[4]と問いかける。それに反応して数百の全国紙が「スクラントン-顧みられぬ都市—」という記事を取り上げる。さらにジェインはニューヨーク、ヘラルド、トリビューンにスクラントンの窮状に関するもうひとつ別の記事を発表し、この地方に工場を開くことでその多くの資源を活用することを政府に訴える。そして様々な努力が功を奏し、新しい工場が開設され始める。ここでジェインは発言が人々に知られるだけでなく、人々を動かす書き手になったのである。

 1943年後半、ジェインは合衆国政府の戦時情報局で記者としての新しい仕事に邁進する。第二次世界大戦が終わり、1945年にそこが閉鎖された際、ジェインは連邦政府の別の部署、—国務省の雑誌部門—で仕事を続ける。Amerika Illustrated(『アメリカ図録』)[5]と呼ばれていた雑誌に特集記事を書きながら、ジェインは共産主義の専制国家の生活と対照させて、アメリカ民主主義をほめたたえることに助力する。Amerika Illustratedの新しい職場はジェインに、彼女がこれからずっと関心を持ち続けることになるアメリカの建築物、学校計画、衰退した地域の再建、裕福でない人たちのための住宅などの話題について、詳しく調べ執筆する機会を与える。

3-1-3 都市の多様性とそれを破壊するものに気付く1944(27歳)〜1956(40歳)

 そして1944年3月、建築家のロバート・ハイド・ジェイコブズ・ジュニアと出会い、5月に結婚する。彼らはしばらくの間ワシントンスクエアに暮らすが、1947年、ハドソン通り555に移る。その家の背面の窓からは人々の往来が「複雑な歩道のバレエ」のように見えるハドソン通りを眺めることができる。

 1948年長男ジェイムズ・ケズィー・ジェイコブズが、2年後に弟のエドワード・デッカー・ジェイコブズが生まれる。自宅の窓から、あるいは町を歩いている最中に、ジェインは自身のやり方で、絶え間ない観察をし、物事をよく考察した。こうした観察が都市についての多くの人の考え方を変えるほどの影響力をもった本の基礎となると考えられる。

 1952年、国務省雑誌部はニューヨークの事務所を閉鎖したためジェインは再度職を探す。そして建築に関して国内で最も尊敬を集める雑誌、「アーキテクチュアル・フォーラム」を次に働く場所として選ぶ。ここでジェインは建築や都市について多くのことを学び、この雑誌社での10年間、ほぼ毎週1本の特集記事を書き、他にも多くの記事を編集する。

 1954年、都市計画家のエドムンド・ベーコンはフィラデルフィアへの旅にジェインを同行させる。そこで通りでは人々が「自分自身でも、またお互いにも楽しんでいる」[6]様子であるのに対し、ベーコンが誇らしげに見せた通り一本向こうの新興住宅地の周りには人がほとんどいない光景を見たことにより、建築家や計画家にとって良いと思われる計画案は実際のはそのように機能していないことに気付く。

 1955年、彼女は自分の疑問を共有する英国協会の牧師、ウィリアム・カークと出会う。カークはイースト・ハーレムのアッパー・マンハッタン近隣地区の貧しい人々を援助していた組織の代表者である。カークはジェインをイースト・ハーレムへの見学に誘い、そこで彼女はアメリカ合衆国政府がイースト・ハーレムの貧困、犯罪、生活状態の改善のために数百万ドルつぎ込んだにもかかわらず、広範囲にわたる破壊が、貴重な社会的ネットワークをどれだけ断絶させているかを目の当たりにする。彼女はどうにか時間を見つけ、カークが代表であるユニオン・セルツメント協会に加わり、イースト・ハーレムの状況に対して都市政府の注意をむけさせるのを手伝う。彼女は、自分が関心を持った問題に積極的に関わり始める。

 ジェインはこれまで自身の目で人の賑わいがあり魅力的な様々な町を見てきたこと、そしてハドソン通りでの活気のある風景を毎日観察し、物事について深く考察したことにより、都市における多様性の重要さに気付く。また、都市計画家のエドムンド・ベーコンが誇らしげに町にとって害悪となっている振興住宅地を見せたこと、ウィリアム・カークと出会い、合衆国政府の担保にもかかわらず、町の状態が悪化している惨状を目の当たりにしたことにより、都市の多様性を破壊に導くのは政府や市にいる都市計画家で、そして彼らが参考にしているハワードやコルビジュエの唱えた田園都市計画や輝く都市などの考えが都市の多様性を壊す害悪の根源であることに気付く。

3-1-4 本の執筆と都市の多様性破壊者との闘い1956(40歳)〜2006(89歳)

 1956年、ジェインはアーキテクチュアル・フォーラムの編集長のかわりにハーバード大学で講演することになる。そこで彼女が、都市計画家の間違った方向への努力を攻撃した時、彼女のまっすぐな語りは聴衆を動かす。聴衆の中に、フォーチュン(多くの読者を抱え影響力を持つビジネス誌)の編集者ウィリアム・ホワイトがおり、彼は彼女の独創的な考えに感銘を受け、フォーチュンの都市に関するシリーズに記事を書くよう頼む。そこでジェインは演説と同様に、通りの生活の「楽しい大騒ぎ」[7]を促進するような建築の在り方を要求する。読者は増加し、彼らはアメリカの都市についての考え方を逆転させて行く。都市設計の先導的な研究を支援するロックフェラー財団は、ジェインの重要性を理解し、彼女が出した考えを発展させることを望んで、彼女に助成金を与える。その額はジェインがアーキテクチュアル・フォーラムの仕事を休止し、都市に関する本を執筆するのに十分な額であった。さらに、ニューヨークの名門出版社であるランダム・ハウスの編集者のジェイソン・エプスタインがジェインの本の出版を熱心に申し出る。エプシュタインとジェインは互いの手腕を認め合う。

 ジェインが本を執筆している間、幹線道路をグリニッジ・ビレッジの中心であるワシントンスクエアの公園のすぐそばにまっすぐ通すと言う計画があることについて知る。ニューヨーク市の役人であるロバート・モーゼスと彼の支持者によって市民がずっと大切にしてきたニューヨーク市民の集まる場所が破壊されようとしているのに対し、彼女は何かしなければならないと感じ、自分の考えを行動に移す。そして戦いの末、ビレッジ住民はモーゼスの計画を阻止することに成功、ジェイコブズは共同体指導者コミュニティリーダーになる。そしてまたモーゼスによって破壊されそうになったハドソン通りも救う。

 その間にジェインは助成金を受けた本の執筆のために時間を割き、『THE DEATH AND LIFE OF GREAT AMERICAN CITIES』[8]を書き上げ、1961年2月にアーキテクチュアル・フォーラムに戻る。しかしわずか3週間後、市が彼女自身の繁栄している近隣地区ウエスト・ビレッジをスラムと認定し、破壊をしようとしていることを知る。すぐさま彼女は立ち上がり、市民とともにほぼ1年の闘いの果て、都市計画審査議会の全委員はウエスト・ビレッジのスラムの烙印を取り消すことを認める。

 1961年10月、ウエスト・ビレッジの勝利のちょっと前に『アメリカ大都市の死と生』が刊行される。刊行されると彼女の刺激的な見解をまとめた本書は非常に話題となり、すぐに国際的認知を得る。アメリカ合衆国での発行の1年後に、英国では出回り、間もなく、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、オランダ語、ポルトガル語、日本語、中国語で出版される。

 さらに1962年には、ロバート・モーゼスは以前ジェインが阻止した道路と接続するはずであった巨大な道路を建設する計画を実行することを決定する。そのためジェインは再度ローワー・マンハッタン高速道路を阻止するための闘いに参加する。そして、1969年8月、ローワー・マンハッタン高速道路を取り去ることに今度こそ成功する。

 そして1968年6月、ジェイン・ジェイコブズは息子がベトナム戦争に徴兵されないようにするため、家族でカナダへ移住し、トロントのおもしろい地区に住む。ベトナム戦争に強く反対し、非暴力主義の抗議者として投獄までされる。ここでも高速道路建設計画を阻止する闘いに加わる。そこでも都市を見て歩き、執筆活動を行う。1998年に国家の最高の名誉である「カナダ勲位」に指名され、「顕著な業績、共同体に対する献身、そして国家に対する奉仕の一生」を表彰される。そして2006年4月25日、89歳でトロントで亡くなる。2007年、彼女の死後にロックフェラー財団は、「ニューヨーク市での活動におけるジェイコブズ的原理や実践」が認められる人々を表彰するために、ジェイン・ジェイコブズメダルを制定する。[9]

 ジェイン・ジェイコブズは自分の興味に邁進し、物を書き続ける一方で、都市の多様性の重要さに気付き、自身が信じた都市の多様性を守るために自ら立ちあがり、勇猛果敢に先頭に立って闘い続けずにはいられなかったと言える。


[1]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012年p.15

[2]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012年p.16

[3]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.19

[4]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.32

[5]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.37

[6]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.51

[7]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.59

[8]邦訳:『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会、2010 

[9]『常識の天才ジェイン・ジェイコブズ』G.ラング・M.ウンシュ著、玉川英則・玉川良重訳、鹿島出版会2012p.132

第2節 ジェイン・ジェイコブズにみる都市の多様性の概念          

 ジェイン・ジェイコブズは著作として、1941年、大学の憲法学のコースで学んでいるときに書いた『Constitutional Chaff: Rejected Suggestion of the Constitutional Convention of 1787, with Explanatory Argument.』 (『憲法雑考:1787年憲法制定会議不採用の起草案 解釈的論考を交えて』)[1]1961年、疲弊した街区をブルドーザーで壊し、巨大な高層ビルを建てるといった類いの都市開発を批判し、都市の多様性の重要性を説いた話題の書である『THE DEATH AND LIFE OF GREAT AMERICAN CITIES』[2]、1969年に農村より先に都市が存在したとする都市起源論を問題提起した『The Economy of Cities』[3]、1980年にカナダのケベック分離独立運動を支持する議論を展開した『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』[4]、1984年に一国が経済的に発展したり衰退したりするダイナミクスは都市のダイナミクスに起因することを説いた『Cities and the Wealth of Nations: Principles of Economic Life』[5]、1989年に子ども向けの童話である『The Girls on the Hat』[6]、1992年に人間の社会道徳には市場の倫理と統治の倫理があることを論じた『Systems of Survival: A Dialogue on the Moral Foundations of Commerce and Politics』[7]、1995年に大叔母のH・ブリースのアラスカでの教師生活を描いた『A School teacher in Old Alaska』[8]、2000年に経済学と生態学との関係を論じた『The Nature of Economics』[9]、2004年現代欧米文明の危機を予測的に読み解いた『Dark Age Ahead』[10]の10冊がある。

 本節ではジェイン・ジェイコブズが都市の多様性とそれを破壊するものに気付いた時期に執筆し、人々の都市に対する認識をかえることとなった『アメリカ大都市の死と生』とそれとちょうど同じ時期と言える1958年4月号のFortune[11]誌に書いたアメリカのダウンタウンの在り方に関する論説「Downtown Is for People」の和訳[12]を参考とし、そこから読み取ることができるジェイン・ジェイコブズが考える都市の多様性について分析する。

3-2-1 都市の魅力とその条件

 ジェイコブズは全国で市民指導者(シビック・リーダー)とプランナーが現在取り組んでいる都市の再開発計画について

「広々とした公園のようで、込み合ってはいない。長い線の眺めがある。また、安定しており対照的で秩序あるものである。そして清潔で、強圧的で、記念碑的である。それは手入れの行きとどいた威厳のある墓場の特質のすべてを持ち合わせている。」[13]

として、彼らがつくる広く閑散としたオープンスペース、一様な眺望、対照的な秩序、清潔さ、強圧的で記念碑的であることを批判し、その場所を「手入れの行きとどいた威厳のある墓場の特質のすべてを持ち合わせ」た場所とまで述べて、その単調さを批判している。建築家のスケッチは同じような退屈な景色を描き、そこに「個性的なもの」はかけらもなく、また「気まぐれ」や「驚き」もなく、まして「伝統のある都市を感じさせるもの」もなく、「独自の色彩」もない[14]、としている。

 そしてこのような計画はダウンタウンを再生するものではなく、最後には死に追いやると考えている。

「建築家は都市とはくい違った方向に働いている。既存の街路を廃し、また機能を排除している。また、変化を排除している。」[15]

として建築家や都市計画家が、既存の街路や機能を排除し、その破壊によって都市に起こりうる変化も排除していることを批判している。上記の二つの引用より、ジェイコブズは都市において「個性的なもの」や「気まぐれ」、「驚き」、伝統を感じさせるもの、都市独自の色彩、そして「既存の街路」や都市における「変化」を重要であると考えていることが読み取れる。

 そしてダウンタウンを計画する最上の方法は、人々がダウンタウンをどのように使っているかを見ることで、「都市の上に置くことができる論理はない」[16]として、建築家や計画家が既存の都市に独自の理論をしこうとすることを批判している。建築家や計画家がつくった建物がその都市の論理をつくるのではなく、そこで過ごす人々がつくるのであり、計画家や建築家が人々のつくった論理に合わせなければいけない、としている。このことは現在を受け入れよ、と言っているわけではなく、現在きたなく混乱した様相であるダウンタウンにおいても正しいことはあり、「単純な古くさい観察」によって私たちはそれが何であるか、人々が何を好むかを見つけることができる、と述べている。

 以上のことにより、都市をかたちづくる際、真っ白の状態から建築家や計画家が思うものを好きに作り上げるのでなく、そこに住む人々や街路を観察しその町が持つ力を探って、それを利用して「驚き」や「変化」を生み出すことが重要であるとジェイコブズは考えていると考えられる。

 そしてジェイコブズは都市をそのように魅力的なものにするために必要な4つの条件を述べている。

条件1:「混合一次用途の必要性」

条件2:「小さな街区の必要性」

条件3:「古い建物の必要性」

条件4:「密集の必要性」

である。条件1でジェイコブズは、都市の内部において多機能をもつ部分を存在させることの必要性を述べている。機能が多様であることで、別々の時間帯にそれぞれ違う理由で人々は外に出て、一緒に別の機能を使うことができることができるとしている。条件2では、ほとんどの街区を短くし、街路や角を曲がる機会を頻繁にすることの必要性を述べている。そうすることで街路は単調でなくなり、人は歩く時色々違った道を選ぶことができ、近隣は文字通り開かれたものとなるとしている。条件3では都市に古さや状態の異なる建物を混在させることの必要性を述べている。そうすることで条件4では都市に十分な密度で人がいることの必要性を述べている。

 筆者の見解では、条件1と条件4は「たくさんの量、要素がある」ことを必要とする性質を持ち、条件2、3は「差、違いが存在する」ことを必要とする性質を持っていると考えられる。以下その分類についてひとつずつ説明して行く。

3-2-2 高密度、多種類

  ジェイコブズは職業電話帳を例に出し、それが都市についての唯一最大の事実、「都市はすさまじい数の部分で構成されているということ、そしてその部分がすさまじく多様だ」[17]と述べる。そしてその膨大な数が存在すること、そしてそのひとつひとつがそれぞれ個性を持っておりすさまじく多様であることこそが大都市にとっての天性であることを述べている。

 まずここでその膨大な数が存在すること、複数の要素が存在することを必要とする性質を持っている条件としてあげている、条件1と条件4の性質について見る。

 条件1では、「その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が、二つ以上の主要機能を果たさなくてはなりません。できれば三つ以上が望ましいのです。こうした機能は、別々の時間帯に外に出る人々や、ちがう理由でその場所にいて、しかも多くの施設を一緒に使う人々が確実に存在するよう保証してくれるものでなくてはなりません。」[18]として都市における複数の用途の必要性を述べている。ジェイコブズは都市街路では、人々が違った時間帯で都市街路に顔を出し、違う理由で外に出てきた人が同時に同じ施設を使うことができるべきであると考えた。そして、都市が2つ以上、できれば3つ以上の主要機能を果たすこと、つまり都市に様々な複数の機能、できる限り数多くの機能を同時に存在させることが都市の多様性の必要条件であるとしている。

 条件4では、「十分な密度で人がいなくてはなりません。何の目的でその人たちがそこにいるのかは問いません。そこに住んでいるという理由でそこにいる人々の人口密度も含まれます。」[19]と述べている。ダウンタウンの高密度と利便性、他の多様性との関係は一般によく知られていることを示し、ジェイコブズは都市のダウンタウンの一次用途が居住であったとしても、人々の密集の必要性があることを述べている。そこに住む人々の密集がないと、都市の街路や公園や事業所において便利さも多様性もほとんど生じなくなってしまうと考えている。また、住民が密集し、それがどんなに高密であったとしても、他の条件により多様性が抑圧されたりじゃまされたりすれば都市に多様性は生まれないことを述べている。つまり、人々の高密な集中、膨大な数の人が存在することは都市の多様性のための必要条件なのである。

 以上より、ジェイコブズは条件1では「機能の多さ」、条件4では「人の多さ」を都市の多様性の必要条件として示している。

3-2-3 差・相違

 ジェイコブズは、都市における場所の感覚は多くの小さな事柄でつくられ、或るものは非常に小さいために人々は無視してしまうようなものでつくられると考えおり、そのようなものがないと都市は「その独自の香気」[20]をなくしてしまうことを述べている。そして、

「不規則な高低差はしばしばブルドーザーでならされてしまうし、多種類の舗装や標識、消火栓、街路灯、白大理石の聖水ばちは一つのものに統一されてしまう。」[21]

として、その小さな事柄の具体的な例として、ここでは、「不規則な高低差」、「舗装」や「標識」、「消火栓」、「街路灯」、「白大理石の聖水ばち」の多様な種類をあげ、不規則な高低差がブルドーザーによってならされその「差」を失ってしまうこと、多種類の舗装や標識、消火栓、街路灯がそれぞれ一種類のものに統一され、それぞれの違いがなくなってしまうことについて嘆きを感じている。

 そして条件3では「地区は、古さや条件が異なる各種の建物を混在させなくてはなりません。そこには古い建物が相当数あって、それが生み出す経済収益が異なってなくてはなりません。」[22]としている。ここで述べられている古い建物とは、「博物館級の古い建物」[23]でも、「みごとで高価な修復を受けた古い建物」[24]でもなく、むしろ「平凡で目立たない、価値の低い建物」[25]で一部は「おんぼろの古い建物」[26]も含まれている。成功した都市地区では、古い建物はその一部が毎年新しいものに改装され、長年経つうちにそこには時代や種類のちがう建物の混合が生じる。その混合の中ではかつて新しかったものが、やがては古いものとなることをジェイコブズは述べている。時間が経つことにより建築のコストは下がるため、高コストであった建築は陳腐なものとなり、それを所有していた事業所は他の事業所にその建物を提供する。また、時間が経ち建物が改装や改修されることで、ある世代にとって効率的な利用をするための場所であった空間は、別の世代にとって豪華な空間に変わったり、ある世紀のごく平凡な建物は別の世紀では便利な変わった建物となったりするのである。このようにして古い建物を町に混在させることで古い建物と新しい建物のあいだに「差・相違」が生まれ、それによって「変化」、「循環」が生まれることをジェイコブズは述べている。

 次に条件2「短い街区の必要性」では、「ほとんどの街区は短くなくてはいけません。つまり、街路や、角を曲がる機会は頻繁でなくてはいけないのです。」[27]と述べている。そうすることで街路は単調でなくなり、人は歩く時色々違った道を選ぶことができ、近隣は文字通り開かれたものとなるとしている。

 歩行者達は「街路にある沢山のコントラストをみることを楽しんでいる」[28]とし、歩行者は街路上にある沢山の互いに対立する要素を見ることを楽しんでいることを示している。そして彼らにとって、街路が無限でもなく、退屈でもないことが必要であることを述べている。

「かくして終点のみえる街路は楽しい街路である場合が多い。同様に、対照的な区切りが頻繁に起こる街路も楽しいことが多い。」[29]

として、ただ単調で広く長い道が続くことは歩行者の利用を排除しがちであり、曲がり角が頻繁にあり、その終点に緑、窓、教会、街の時計であれ、どんな小さなものであれ、歩行者の関心事が選択的に「みえる」街路の良さを述べている。また、MITの教授ジョージイ・ケペシュとケヴィン・リンチのボストンの調査の結果として「歩行者の大きな関心は前方にある雑多な小さな区切りにあったこと」[30]が大きな収穫であったことを述べている。そして、

「(ボストンの多くの道のように)狭すぎなければ、また自動車が渋滞を起こしていなければ、狭い道は、歩行者に道の両側の景観を連続的に選択する機会を与え、見る物を二倍にする。(中略)これはダウンタウンの街路はすべて狭く短いものである必要を意味しない。この点でも多様性が求められている。」[31]

として、道を狭くすることで歩行者が「みえる」ものの量は多様になり、道のどちら側のどの景観を「みる」のか歩行者は選択することができることを述べている。しかしだからといってすべての街路を狭く短いものにするのではなく、街路の広さ、長さにおいても多様性が必要であることを述べている。

 そして、「Downtown Is for People」(雑誌『Fortune』1958年4月)では、

“The Gruen plan, for example, will interrupt the long, wide gridiron vistas of Fort Worth by narrowing them at some points, widening them into plazas at others. It is also the best possible showmanship to play up the streets’ variety, contrast, and activity by means of display windows, street furniture, imagination, and paint, and it is excellent drama to exploit the contrast between the street’s small elements and its big banks, big stores, big lobbies or solid walls.(訳:例えば、フォート・ワースのグルーエンプランでは、或る場所では街路を狭くし、別の場所では広くしてそこをプラザにすることで長く広い格子の眺めを遮っている。それはまた、ディスプレイウィンドウ、ストリートファーニチャー、イマジネーション、ペイントによって、街路の多様性、コントラスト、アクティビティを目立たせるための可能な最高のショーマンシップである。街路の小さな要素と大きな銀行、大きな店舗、大きなロビーもしくは固い壁のコントラストを発掘することは最高のドラマなのだ。)”

と述べている。ここで、格子状の街路をもとに計画したと考えられるアメリカのフォート・ワースにおけるグルーエン・プランを例に出し、その計画では街路の広さにメリハリをつけ、街路が広い場所ではそこをプラザとして、一様で単調になってしまいがちな格子状の計画の眺めを解決していることを示している。そしてそのプランでは、ディスプレイウィンドウ、ストリートファーニチャー、イマジネーション、ペイントを使うことによって、街路の多様性、コントラスト、アクティビティを目立たせる、歩行者に対して最高の見せ方が行われていることを述べている。この文章を解釈すると、その都市には様々なディスプレイウィンドウ、ストリートファーニチャーが置かれており、また、装飾的なペイントがされていて、そこから生み出されるイマジネーションによって街路が持つ多様性、コントラスト、アクティビティが強調されている、ということを述べていると考えられる。そして、そのような様々な要素が存在する町において街路上の小さな要素と大きな銀行、大きな店舗、大きなロビーもしくは固い壁のコントラストを発掘することは歩行者のイマジネーションを刺激することであり、その連想作用は歩行者にとって最高のドラマであることを述べている。街路上の様々な小さな事柄がそこにある様々なものとのあいだにコントラストを生み出し、その対立性が歩行者に連想作用を引き起こし、それが歩行者にとって最高のドラマとなってそれを楽しむことができるものであることをジェイコブズは述べていると考えられる。

 このようにして街路を短くすることで、街路上の景観にコントラスト(相違)が生まれ、それが歩行者のイマジネーション(連想作用)を引き起こすことをジェイコブズは述べていると言える。

 以上、条件2と条件3を見ることにより、ジェイコブズは「差・相違」によって都市に「変化」と「循環」、そして「連想作用」を引き起こすとことができると考えたと言える。

3-2-4 まとめ

 ジェイコブズは「都市の多様性」を生み出すためには4つの条件が必要であると考えた。そして本節においてその条件は「たくさんの量、要素がある」ことを必要とする性質を持つ条件と「差、相違が存在する」ことを必要とする性質を持つ条件の二つに分けられることを示した。そして都市に「たくさんの量、要素がある」ことは絶対的な必要条件で、そのたくさんある要素同士に「差」、「相違」が存在することによって都市における「変化」、「循環」、「連想作用」が引き起こされ、その「変化」、「循環」、「連想作用」のために都市は面白いものになると考えたことがわかった。

第3節 『THE QUESTION OF SEPARATISM』に見るジェイン・ジェイコブズの思想

 本節ではジェイコブズの数ある著作のうち、日本において訳本が出版されていない『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』[32]を扱う。本書はカナダのケベック分離独立運動を題材として小さなもの(ケベック)が国家主義という大きなものに強引に同質化されることに対する異議申し立てとしてケベックの分離独立を支持する議論を展開したものである。

 ここではまず、本書全体の概要を示し、その後ジェイコブズの思想が特に表れている章について内容を詳しく見ていくことで、本書を出版した1980年におけるジェイコブズの思想にせまる。

3-3-1 概要

 1章「Emotion(感情)」では、導入としてケベック州にはイギリス系カナダ人とフランス系カナダ人がおり、フランス系カナダ人はケベックがイギリスと同質化されることに非常な嫌悪を感じていたが、1960年以降その感情は新しい段階に入ったことを述べ、今後の新しい“separatism”(分離)の在り方を考えることを示唆している。

 2章「Montreal and Toronto(モントリオールとトロント)」では、ケベックにおける主権の問題が深刻になった理由を理解するためにまず見なければならないカナダの主要都市であるモントリオールとトロントについて論じ、章の最後でケベックの分離独立の必要性を述べている。

 3章「The Secession of Norway from Sweden(ノルウェイのスウェーデンからの分離)」では、1905年にスウェーデンからノルウェイが血を流すこと無く、平和的に上手く分離独立した例を詳しく説明している。

 4章「National Size and Economic Development(国家の大きさと経済発展)」では、経済の発展と国家の大きさの関係についてノルウェイとカナダを比較して、経済の発展に国家の大きさは関係がないことを論じている。

 5章「Paradoxes of Size(サイズの逆説)」では、経済における企業を例に挙げ、大きなものから小さなものが分離する際の見方をジェイコブズ特有の視点で論じている。

 6章「Duality and Federation(二重制と連邦制)」では、カナダの国家の在り方として同時に成り立たせることができない二重制と連邦制について詳しく論じている。

 7章「Sovereignty – Association: Connectors(主権連合[33]:連結するもの)」では、主権連合には「independent(独立)」と「connected(関係)」を意味する二つの要素があることを述べ、レヴェスクが行った5つの提案に対してジェイコブズの考えを示し、通貨に関する彼女の見解を詳しく論じている。

 8章「Sovereignty – Association: Independence(主権連合:独立)」では、これまで論じてきたことをまとめている。最後に現在ジェイコブズの世代が作り上げてきた息の詰まってしまう環境において後世に対するジェイコブズの姿勢を述べてまとめている。

3-3-2 国家の大きさと経済の発展

 4章「National Size and Economic Development(国家の大きさと経済発展)」において、ジェイコブズはノルウェイとカナダの経済を比較し、ノルウェイ国内の市場は力強いのに対し、カナダのそれは無力であることを述べる。そしてその違いを探っている。

 ノルウェイとカナダの一部、大西洋に面した州であるノバスコシアは経済の状態が非常に似ている時期があった。どちらの国も貧しく、主要な輸出は共に魚介と材木であった。19世紀前半ノバスコシアはノルウェイがやっていたのと全く同じように造船業を始め、さらに船舶所有者によって他国への貨物の運送も始めた。運送の仕事が広がると同時に造船所での仕事も広がった。そして、19世紀中頃には世界中の海でノバスコシアの船が見られようになった。ノバスコシアの造船所では3000人の従業員を雇うようになり、現在の状態からでは想像もつかないほどの繁栄であった。しかし、ちょうど約1世紀前、ノバスコシアとノルウェイの経済ははっきりと別の方向に向かい始めた。ノルウェイでの造船業は木材から鉄材へ、また帆から蒸汽へと変わり始め、ノバスコシアではそのような変化は見られなかった。

 ノバスコシアでは石炭と鉄が発見され、造船業を改良していくよりも新しく発見された石炭と鉄を輸出する方が容易に収入を得られるようになった。そこで資本家はその二つの産業を同時にすればよかったのだが、簡便さとその一時の収入額の良さゆえに一次資源の輸出だけに頼り、造船業は廃れていった。現在ではノバスコシアはノルウェイに比べて貧困で非生産的であるが、世紀の変わり目にはノルウェイよりもはるかに裕福になっていた。

 一方でノルウェイでは造船業が生み出した製造業の発展により生まれた仕事ために、造船業は終えられていた。ノバスコシアではそこでとれる一次資源、例えば魚介を捕り、カンに詰め、輸出するだけであったのに対し、ノルウェイは魚介を捕り、カンにつめ、輸出するのに加えて魚をカンに詰める機械も作った。このように一次資源の輸出だけでなく、製造業も行っていた点でノルウェイはノバスコシアとは大きく異なっていたことをジェイコブズは述べる。

 そしてノルウェイは輸出するものを生み出すこととそれを作る機械を供給することの両方に力を注いだことによって多彩な製品を作ることができる手段を手に入れた。さらに、生産者の仕事が分岐すると、供給者も分岐し、経済の多彩さは増すことになる。例えば、造船業が船のナビゲーションの製造に分岐したら、飛行機のナビゲーションへとさらに分岐することができる。そしてその仕事はマイクロ加工とコンピュータ付属品の国内市場もまた提供する。

 一方でカナダでは、遠距離通信機の生産によりノルウェイと同程度の製造業が可能であることを示したが、国土が広いために全体としてはその製造は国土の中ではまだらな範囲でしかなく、カナダはやはりその土地からとれる天然の資源を輸出することが運命であるらしかった。オンタリオ州政府はある州において経済的な不足が明らかになり、別の経済政策が急を要して必要であったとしても、そしてその場所で貿易を可能にする製造のつかの間のどんな種類の好機があったとしてもそれに無関心であり、そのような無関心がカナダ全体を覆っていた。

 しかし、カナダはその大きさゆえに、ある場所での製造業の必要性やその好機に無関心になってしまう、という意味を除いては、国土の大きさは経済にとって問題ではないし、もしその国土を二国に分離したとしても製造業の発展に大きさのハンデを負わせることにはならないことをジェイコブズは述べている。

“Norway’s means of economic development is not peculiar to small countries. It is also the way large countries develop their economy. Large countries which fail to develop and make tools of the trades for their major producers, then for all manner of producers, do not develop economically, no matter how large their population is.”[34]

と、ノルウェイのような経済発展の手段はノルウェイのような小さな国に特有であるわけではなく、大きな国が自国の経済を発展させる方法でもあることを述べる。そして、その国での生産者の使う道具の貿易に失敗するとその国がどんなに人口が多かったとしても経済的発展はできないとしている。

 この章で、ある国の経済において産業が分岐し、多様化することで経済は多彩となり、国家として発展できるとして、このように産業を多様化することが重要であると、ジェイコブズは考えていることが読み取れる。

3-3-3 サイズの逆説

  5章「Paradoxes of Size(サイズの逆説)」においては、「大きなものから小さなものを作り出すことは後退であるのか?」、「大きなものから小さなものになることは悪化であるのか?」という疑問に対して様々な例を挙げてジェイコブズ特有の考えを用い、この問いに答えている。

 まず自動車会社を例にあげ、小さくなることが後退、悪化である場合もあることを示している。そこでジェイコブズはものごとが一番上手く行っているように見える時にはすでに虫が中心を食っていることを述べている。続いて、会社の分離が上手くいった別のオイル会社の例を挙げ、縮小や分離が必ずしも衰退を意味するわけではないことを述べる。

 そしてアメーバの分裂について触れる。

“Making little ones out of big ones, then (中略)may mean not disintegration but birth, with the chance for new strength which birth implies.”[35]

ここでジェイコブズは崩壊され二分されたかのように見えるアメーバの分裂は崩壊を意味しているのではなく、誕生を意味しており、その誕生というのはさらに新しく、強くなるチャンスであることを示唆していることを述べている。

 そして経済の世界において、アメーバは分裂して必ずしも同じアメーバになるとは限らない。店舗などの場合、ある大きな企業から独立した企業は経験と新しいアイデアを組み合わせて別の企業になることもあることを示している。それは親企業の「再生(reproduction)」ではなく「突然変異(mutant)」なのである。

“Mutants are the most important form of division in economic life. The diversity of enterprise in Norway did not come out of thin air. They include many mutants. Existing enterprises are often open new ideas, but most innovations take place in small, new companies.”[36]

(訳:突然変異は経済における分裂の中で最も重要なかたちである。ノルウェイの企業の多様性はうすい空気から生まれたのではない。それらは多くの突然変異を含んでいる。現存の多くの企業は新しいアイデアに対して開けているが、改革は小さくて新しい企業の中で起こることがほとんどである。)

として、ジェイコブズは経済における突然変異の重要性を述べ、ノルウェイにおける多様な企業の多くはそのような突然変異から生まれていることを示している。そして企業における改革は大きな企業ではなく小さな企業において起こりやすいことを述べている。「小さなものになること」は二つの正反対の意味を持っている。一つは崩壊(decay and disintegration)[37]、もう一つは活力の誕生と蘇生(birth and renewal)[38]なのである。

 そして大きいとその弱さを見過ごしてしまう可能性があることを述べ、もし大きいのであればそのことが命とりになる前にそれなりの工夫を施さなければならないとジェイコブズは考える。

“Haldane presents us with an interesting principle about animal size: big animals are not big because they are complicated, rather, they have to be complicated because they are big.”[39]

英国の著述家であるホールデンの言葉をかり、動物の大きさを例に挙げてジェイコブズは、大きい動物は複雑であるから大きいのではなく、大きいがゆえに複雑であることを述べている。

 そして企業や政府の統合は経済を大きくするという一般的な誤解に対し、そうはならず統合したことにより生じる複雑さのために余計に費用がかかることを述べ、それにより政府が考える計画を実行できなくなるとして、統合に対して異議を唱える。分散化させることは難しく、中央主権化し、お役所主義的な仕事が増える政府に対して、大きな政府は必ず最後には圧迫され、大きなサイズのまま維持し続けることはできないことを強く主張している。

 まとめると、ジェイコブズは「分裂」には「崩壊」と「誕生」の二つの意味があり、それは自身をより強いものにするチャンスであること、そして分裂における突然変異は多様な要素を生み出すために極めて必要なことであることを述べ、統合して大きくすることは一見すると良くなるように思えるが、それは多様性を殺すことであり、すべきではないことを主張している。

3-3-4 国同士を連結するもの

 7章「「Sovereignty – Association: Connectors(主権連合:連結するもの)」では、主権連合には「independent(独立)」と「connected(関係)」を意味する二つの要素があることを述べ、ここでは国同士を連結するものについて述べている。

 ジェイコブズは「独立はconscience(良心、善悪の判断力)を含意している」ことを述べる。そして国家同士の関係性は非常に難しく「関係」がありすぎると国家相互の圧迫と、過度に中央主権化された政府における複雑すぎるお役所仕事が生じ、「関係」が破綻していると外交関係がなくなり、戦争を引き起こすことになることを示している。そして憲法が「独立」と「関係」を線引きする手段であると述べている。

 そしてレヴェスクが著した書物『My Quebec』をもとに国家間の関係のために彼がした5つの提案に対して1つずつ言及している。以下にその5つを挙げる。

  • ①連合となった国同士での自由な貿易
  • ②連合となった国同士での人の自由な旅行
  • ③海のコミュニティを作り自由に海上を移動できること
  • ④軍隊を共有すること
  • ⑤通貨を共有すること

①〜④に関してジェイコブズは賛成するが、⑤に対しては激しく反対の考えを示している。反対する理由の中にジェイコブズの思想が表れており、その内容を見て行く。

 まず国同士で通貨を共有する利点としてはその連合領域内において工場などの働く場所をいろんな所に作りやすい。しかし弱点としては国によって通貨の価値の不一致が生じることが挙げられる。また、「通貨の共有」という概念は1971年以前ならあり得たが、ブレトンウッズ会議が崩壊した今となっては時代遅れの概念であることを述べている。

 そしてジェイコブズは連合した国同士は国別に通貨を変えるべきであると主張している。別の通貨を使うことによって、他国との貿易の際、為替レートによる差額のために一方の国に差額分の利益が生まれる。そしてその差額の利益によって次の貿易が起こりやすくなり、現状で小さい国が押し上げられると同時に輸出の多様化が起こる。

 カナダのように大きな国家の全土で通貨が共通であると、上に記したような多様化が生まれず、経済発展が起こりにくいことをジェイコブズは主張し、同一国内においても通貨を変えることが有効であることを示している。

3-3-5 ケベックの独立に関するジェイコブズの考え、姿勢

 8章「Sovereignty – Association: Independence(主権連合:独立)」において時ジェイコブズはケベック分離独立問題について自身の考えと姿勢をまとめている。

 カナダにおいてどの州も独立を考えるべきであるがケベックは将来的に独立することができる可能性を持つ唯一の州であり、他の州とは異なり単体で置いておくとカナダにとって負担となり得ることを述べている。

 レヴェスクのした提案を振り返り、それぞれに対し自身の見解を再度言及してまとめるとともに、多様な文化が自分達の独自の文化を豊かにし、また様々な文化の本を読むことによってジェイコブズ自身が豊かになったこと、18世紀に起こった啓蒙運動から統一化が試みられたがそれを追求しようとすればする程統一化とは反対の要素である、自然の中にある多様性がみとめられたこと、そしてその自然の中の多様性がジェイコブズに大きく影響したことを述べ、英国のジャーナリストであり著述家であるカメロンの言葉をかりて多様性はそれ自体で最高の要素であることを述べている。

 最後に、カナダにおいてさえも、我々の世代の人々によって作られ、息苦しく、無駄が多くそして制御できない程に制度化され不自由になってしまったこのような乱雑な世界を後世に残すことに絶望する一方で、ケベックのために中央主権化することを増やすのではなく、それと闘うことは後世に対する見苦しくない贈り物とすることができることを述べ、ケベックと他の州との関係性を作ることができれば、それは贈り物として最上級に誇ることができることであるとして自身の後世に対する姿勢を述べて終わっている。

3-3-6 まとめ

3-3-2「国家の大きさと経済の発展」において「発展」と「大きさ」は関係ないことを述べ、3-3-3「サイズの逆説」ではジェイコブズは「分離すること」、「小さくなること」で生じる「突然変異」、「変化」の重要性を、3-3-4「国同士を連結するもの」では通貨を別にすることによって州同士、国同士のあいだで貿易、つまり分離によって生じる「差」により「循環」が起こることの利点を述べていることがわかった。

以上により、この時期についてもジェイコブズは都市における「小さな事柄」、「変化」、「循環」を重要と考えていたことがわかった。

第4節 小結                                

 ジェイン・ジェイコブズの生涯を3節に分け、第1節では通年的に一人の人物として彼女の生涯を追い、第2節では人々の都市に対する考えを覆したと言われる周知の論のジェイン・ジェイコブズの「都市の多様性」について分析し、第3節でその後カナダのトロントに移住してからの思想を見た。彼女の生涯を通じて彼女の思想をみることで彼女は一貫して自身の意志を持ち、独立の中にconscience(良心・善悪の判断力)を含意していた人物であったことがわかった。

 ジェインは少女時代から正直で独立心があり、様々なことに興味を持っていた。そして幸運なことにニューヨークに旅行する機会に恵まれ、ニューヨークにあった大都市の魅力に触れる。そしてそれ以後職を転々とするなかで、都市をよく観察しその魅力について深く考えたことで都市の多様性とそれを生み出すものに気付く。『アメリカ大都市の死と生』を出版し、世界的に非常に有名になった後でもその意識と姿勢は変わらず、ずっと小さなもの、多様性のために意志を持って闘い続けた。

 以上、ジェイコブズの生涯を見ることで、一貫した強さ、都市の多様性に対する信念を貫き通したことがわかった。

 また、ジェイコブズの「都市の多様性」についての思想を明らかにした。ジェイコブズが都市の多様性を生み出すために必要であるとした4つの条件は「たくさんの量、要素がある」ことを必要とする性質を持つ条件と「差、相違が存在する」ことを必要とする性質を持つ条件の二つに分けられることを示した。そして都市に「たくさんの量、要素がある」ことは絶対的な必要条件で、そのたくさんある要素同士に「差」、「相違」が存在することによって都市における「変化」、「循環」、「連想作用」が引き起こされ、その「変化」、「循環」、「連想作用」のために都市は面白いものになると考えたことがわかった。


[1]ジェイン・バッツナー編集、ニューヨーク:コロンビア大学出版1941

[2]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010

[3]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『都市の原理』(新版)中江利忠・加賀谷洋一訳、鹿島出版会、2009

[4]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳なし

[5]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『発展する地域衰退する地域地域が自立するための経済学』中村達也訳、筑摩書房、2012

[6]トロント:オックスフォード大学出版、邦訳なし

[7]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『市場の倫理統治の倫理』香西泰監訳、日本経済新聞社、1998

[8]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳なし

[9]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『経済の本質』香西泰監、植木直子訳、日本経済新聞社、2001

[10]ニューヨーク:ランダムハウス社、邦訳:『壊れゆくアメリカ』中谷和男訳、日経BP社、2008

[11]アメリカ合衆国における世界的な英文ビジネス誌。

[12]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973

[13]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.234より引用。

[14]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.234。

[15]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.235より引用。

[16]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.238より引用。

[17]『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010p.166より引用。

[18]『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010p.176より引用。

[19]『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010p.228より引用。

[20]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト、J・ジェイコブズ他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.266

[21]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト、J・ジェイコブズ他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.266

[22]『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010p.214

[23]同上。

[24]同上。

[25]同上。

[26]同上。

[27]『アメリカ大都市の死と生』ジェイン ジェイコブズ著、山形浩生訳、鹿島出版会2010p.205

[28]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.253より引用。

[29]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.254より引用。

[30]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト、J・ジェイコブズ他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.254より引用。

[31]『爆発するメトロポリス』W・H・ホワイト、J・ジェイコブズ他著、小島将志訳、鹿島研究所出版会、1973p.254より引用。

[32]ニューヨーク:ランダムハウス社、1981

[33]フランス語系住民が多数を占めるケベック州のカナダからの分離独立を求める団体、もしくはその政策。

[34]『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』ニューヨーク:ランダムハウス社、1981p.61より引用。

[35]『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』ニューヨーク:ランダムハウス社、1981p.67より引用。

[36]『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』ニューヨーク:ランダムハウス社、1981p.68より引用。

[37]『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』ニューヨーク:ランダムハウス社、1981p.68

[38]同上。

[39]『THE QUESTION OF SEPARATISM: Quebec and the Struggle over Sovereignty』ニューヨーク:ランダムハウス社、1981p.71より引用。